1987-05-14 第108回国会 衆議院 大蔵委員会 第6号
そして、我々のこうしたかんがい用水やビート工場をつくっていただいている。そこに、日本の国会の大蔵委員会のメンバーに現地を見に来ていただいた。大変感慨深く、大変な喜びようで我々を迎えてくれたのが今から約十年前ですが、私は大変印象に残っているわけです。
そして、我々のこうしたかんがい用水やビート工場をつくっていただいている。そこに、日本の国会の大蔵委員会のメンバーに現地を見に来ていただいた。大変感慨深く、大変な喜びようで我々を迎えてくれたのが今から約十年前ですが、私は大変印象に残っているわけです。
かんがい用水あるいはビート工場などを見さしていただきました。やはりやれば日本のそうした資金援助が生きてくると思うのです。そうした方向に大蔵省としてもぜひ全力で取り組んでいただきたい。最後に、その点について大臣の所見を伺い、質問を終わりたいと思います。
ビート工場をどんどん増設するときに政府が立てた方針、これはもう政治責任なんですから、それらの責任をもっと感じてやってもらわないと、しわ寄せが農民に来るということになるのです。それおわかりになりませんか。どうです。
○丸谷金保君 そうすると、大変経済立地条件から言うと合理性のないところに建てたビート工場、こういうふうなものについての採算の問題については、十分政府において、当時許可した責任上配慮して対処していくというふうに理解してよろしゅうございますね。
しかし、ビート工場を許可したときのビート工場の体質そのものは余り変わっていないんです。そのときと同じような、要するに甘味資源の自給度ということで、価格の問題その他いわゆる経済の合理性ということを中心でなく工場を建ててしまったんですよ。ですから、そういう点で非常に私は問題がずいぶんあると思います。 たとえば、このビート工場というのは北海道に集中しておりますけれども、道南に一工場あります。
これは北海道におけるビート工場でも、いい工場と悪い工場がある。下の工場に合わせれば上がもうかってしまう、上に合わせれば下がまいるというので、やはり平均のところで、悪い企業は御努力願う、こういう仕組みでありまして、気持ちはわかりますけれども、なかなかとり得ないところである。 それから、機械化が農村にとって酷ではないかと言いますけれども、これもいつも議論のあるところでございます。
それが砂糖の自給度を高めると言って、昭和三十年代にビート工場をつくった。三十八年に自由化した。しかも、自由化はしたけれども、なおかつその差益でもって国内産糖を奨励して、そうしてさらに自給度を高めていくんだということを言っておいて、結局自由化したらそれはできないわけですよ。
もともとビート工場なりビートの生産というのは、そういう精製糖とは別の一つのジャンルで保護され、経済のベースだけでない立場で政府がおつくりになったんでしょう。そのことをいまになったらいつの間にか忘れて、とにかく国際糖価であるとか、国内の砂糖の価格がどうだとかと、こういうことにすりかえて責任を転嫁するというふうなことはもう非常に遺憾だと思います。
ビート糖あるいはサトウキビ、たとえば北海道にビート工場をふやすときに、一社しかなかったんです、工場は三つありましたが。それを急激に国内の甘味資源の自給体制を強めるということで、当時の計画では四〇%というふうに思っております。
こういうふうに経済ベースに合わないところに政治力で——政治力という言葉がここにたくさん出ておりますが、工場をつくらせておいて、いまになって国際糖価がどうだからとか、国内の糖価の小売価格が低くなったというふうなことが、ビートの価格を決定するときのいささかでも原因になるようなことがあれば、これは私たちはビート工場をつくったときのいわゆる寒地農業の確立と農民の生活と経済の向上という当時の農林大臣、農林省のうたい
それから、もう一つは、北海道には本州にはないビート工場というものがあるわけですから、農業の経営安定という観点と、それから、いまあるビート工場の存立という問題と、こういう面を特に考えなければならぬと私は思うのであります。
国策に乗ってビート工場を誘致する。そこに住んでいる方々がそこで働くことができるということも合わせて無償でその土地を提供する。それが十数年の間に会社は倒産する。
こういうようなことが、ことしはひょっとすると、去年六万一千ヘクタールあったのが四万五千から四万八千ヘクタールに落ち込むのではないか、ビート工場二工場がつぶされるだけの落ち込みを見せるのではないかという話さえ現地ではあります。
冒頭にお話しのありました青森県のビート工場につきましては、当時の事情は、米内山さんも、ことに地元でおいでになりますから、よく御存じのとおりです。
で、それにむつ製鉄、ビート工場があるときと同じ設備と同じ土地と、そして同じ水深だとか、あるいは岸壁というものをつくるということ、それは非常に矛盾じゃないですか。当然、それならむつ製鉄とビート工場がなくなったんだから規模を少なくするとか、あるいはそれに合った体制というものを、製鉄から出発したことであれば、それと違ったものをやっぱり考えていくというのが普通じゃないですか。
○伊部真君 これはもともとむつ製鉄とビート工場がくるということを前提にしてこの港湾開発を計画したはずですよ。そうでしょう。いま言われるのは、年間に何トンの荷物というのは、何を根拠にしてそれを言われるのか。当然これはむつ製鉄だとかビート工場ができたらこの港湾の利用価値というのは出てくるわけですけれども、それがなくなれば、私はこの港湾は利用価値があるとは思えないんですよ。
で、この工場をどうするかという御意見でございますが、むしろわれわれといたしましては、現在、ほぼ各工場とも整備を終えまして、昨年は根室に日甜を中心といたしました大新鋭工場が一つ新設されたわけでございますが、ことしはホクレンが北のほうに、従来の磯分内にありました工場を日甜から譲り受けまして、移転というよりも改築に近い工場を一つつくられまして、新年度から操業開始ということで、大型化 日本のビート工場は従来少
さらに、御指摘のビートパルプの関係でございますが、これは御案内のとおり、道内にありまして、いわゆるビート工場がしぼったあとを農家に還元をするという形でやっているわけでございますが、それと一般流通を道内あるいは内地のほうにしているというものの値段の差があるわけでございまして、この辺を見るようにという御趣旨と思いますけれども、これは前回三十九年あるいは四十一年にもこの点ございました。
その中に、おあげになりました斜里町におきますところのビート工場の廃液浸透池をつくるための問題が出ております。これにつきましては、北海道教育委員会とも相談いたしまして、最初の予定地でございますと全面的にかかることになっておりましたので、その場所をよけまして、竪穴住居あとが十八個でしたか、だけはそれにかかるというようなことで届け出を受理したというようなことでございます。
その斜里にホクレン——北海道農業協同組合連合会ですか、ホクレンの経営するビート工場、最近はでん粉等をつくる仕事もやっているのでございますが、おそらく昭和三十四年あたりから私動いていると思いますが、そういうのが動いております。
北海道の網走付近の原生花園から一キロの距離のところにある斜里のホクレンのビート工場が、この排水を期間内だけで八百万トン、こういうようなものをパイプでそのまま流して、そして湖水の中に入れてしまっている。これはどういうようなあんばいでこういうことになったのか。これは重大な環境破壊で、それも六月三十日というと、環境庁が発足するちょうど一日前じゃありませんか。
北海道の中斜里のホクレンのビート工場、これはホクレンが約三十億円をかけてこの工場をつくった。これが完成すると年間一千万トンにものぼる廃液がサケの漁場である斜里川に流される。そこで漁民が猛反対をした。結局北海道庁の調停案というものが出された。
○政府委員(宮崎仁君) いま農林省のほうから御答弁がありましたが、この水質汚濁防止法案第十四条三項で規定しております「有害物質を含む汚水」といいますのは、御承知のとおり、いわゆる健康項目といわれておりますような「有害物質を含む汚水」という意味でございますから、法律上の問題としては、このビート工場からの排水というもの、大体これは問題になりますのはおもにBODとかSSとかいうようなものが問題になるわけでございまして
特に、昨年、フジ製糖のビート工場閉鎖により、同町農民が受けた大きな損害とあわせ考えるに、国の手厚い援助なしでは、この地域の農民の再起は不可能であります。
結果として北海道ではそうあらわれ、青森県にあった北東北のビート工場は廃止という形であらわれたわけです。まさにこれは資本家的な合理化政策の結果であり、青森県農民の犠牲だったわけです。あそこには国が奨励し、指定し、国家の資金を融資して十数億の設備があって、今日まだ残骸をさらしているし、そこにはまだ労使の問題——退職金等もとれないで労使紛争をそのまま続けている労働者も数十名おる。
○大口政府委員 北海道のビート生産関係の会社の統合の問題につきましては、米内山委員も御承知だと思いまするけれども、ビート工場の採算を最も決定的に左右するものは原料のビートであることは、いまさら申し上げるまでもないと思います。